学生の頃だから、もう10年以上前のことだ。
1年間、休学して、外国を放浪していたことがある。
なぜそういう経緯に至ったかは長くなるので割愛するが、とにかく、大学3年の秋、11月に日本を離れた。
訪れた国は、全部で19ヶ国。
リュック一つで世界を歩いた。
…と、思ってた。
でも、世界地図を広げると、ほんの一部にしか訪れていないことに気が付く。
☆ ☆ ☆
日本を離れるまでは、自分は視野が広いのか狭いのか判ってなかった。
しかし海外に出て初めて、自分の視野の狭さを知り、帰国してからは、そのおかげで視野が広くなったと思った。
世界は広い、なんてことを軽軽しく口にしていた。
しかし、世界地図を広げると、それでもまだ自分は視野が狭いことを痛感してパニックになった。
☆ ☆ ☆
海外に出て、…今尚うまく表現できないが、自分の殻というものや器量、大きさ、柔軟性、適応力、なんかそういう自己を表すものは全てあてはまる気がするけど、そういうものと闘ってたのかなぁと思う。
自分でもよく判らない。
だから、書いてみようかなって思った。
今、あらためて当時を回顧し、出来事を思い出して、そこに付随される自分が抱いた気持ちを分析してみようと思った。
簡単なことは、その地図を仕舞い込んでしまい見なかったことにすることだったが、
なんとかがんばって地図を広げたままにしている。
11月の秋晴れのある日、リュック一つで成田空港に立つ。次に地に足を下ろすのは、ロンドンヒースロー空港だ。
(二)
ロンドンは二回目。
前回は高校生の時だった。
全ての雰囲気が違う。前は、友達が多く一緒だったし、研修という名目だった。
今回は一人だ。
しかも、目的らしい目的もない。
完全に自由で、まったくの一人。だから、全ての行動を人のせいにできない。
もともとロンドンに長居するつもりはなかった。
実際、2,3泊。
当時、叔父が仕事の関係でロンドンに住んでいたので、2,3日そこでお世話になることになっていた。しかしこの叔父は、外国で生活したことなどなく、英語もまるでダメだった。
日本から移り住んで大体半年ぐらいのその叔父夫婦に、両親から手土産を渡すよう頼まれていた。
米、味噌、お酒、お茶、せんべい、羊羹…etc,etc、。。。って、重いっつうの!!
ヒースロー空港まで迎えに来てくれた叔父夫婦は、自宅までの途中、日本食レストランに連れて行ってくれて、
「日本食が懐かしいだろう」
と言った。
今ならその気持ちもよく判るが、その時は、日本から来たばっかなのになぜ? って感じだった。むしろケバブ*とか食べたかったし、パブにも行きたかった。
当然話題も日本のことばかりだった。
手土産を渡すと、本当に涙を流して喜んだ。
思えばその歳でいきなり外国に行かされて、言葉も環境もまったく違うところで夫婦で生活していたのだ。
何かしてあげられることがもっとあったに違いない、時間だけはあったのだから。
しかし、何もしなかった。
むしろ早く旅立ちたかった。
予定よりも早くロンドン発ブダペスト行きのチケットを手配すると、ロンドンを満喫する間もなくすぐに出発した。
どうせロンドンにはまた戻ってくる。恐らくは拠点になるだろう。それでいい。
しかし、次はなかった。叔父夫婦はもうロンドンにはいなかった。
あれから1ヶ月もしないうちに退社して帰国したと、知ったのは日本に戻って母に聞かされてからだった。
ブダペストでは、晴れたことが一度もなかった。
*ケバブ kebab/焼き肉料理の意味。本場トルコや中東各国では日本のおにぎり感覚で食べられている。ここでは、「ケバブ肉をサンドイッチ状のパンにはさんで食べる」という世界中に広まったファーストフード形のもののこと。
(三)
ハンガリーに入国してから先はしばらくは列車での移動、飛行機には乗らない。
ブダペスト国際空港で、まずは繁華街に出て宿を探すつもりだったが、なんとなく不安で結局空港にあるIBUZUで宿を紹介してもらうことにした。
一週間の滞在で、1泊$41。
正直安いのか高いのかよく判らない。
しばらく待つと、とても美しいお姉さんがおんぼろの車に乗って迎えに現れる。
宿まで40分近く、場所は、ペスト市にあった。
母屋があって、案内された部屋は、コテージのように完全に独立している。
そこに一週間いた。
細かいことはいろいろあったが、この一週間で、大きく変わったことがある。
それは、とにもかくにも早く日本に帰る、という気持ちの芽生えだった。
そのコテージで、どのように過ごしたかは、なんとも言い難い。
確か、町には、2,3度しか行かなかった。
あとはずっと、部屋の中にいたのだ。
時間もめちゃくちゃで、目が覚めて、今が朝なのか昼なのか夜なのかさえ判らず、興味も持たず、腹だけは減るから、母屋の方に食事をとりに行く。
その繰り返し。
シャワーを浴びると、当然のようにお湯から水にすぐに変わる。
ほんの一瞬を逃さずさっと浴びる。
そして、気が付くと、浴室に流れた水がたまって足首まで浸かってる。排水口を見ると真っ黒、自分の髪の毛で、排水口がつまってしまっているのだ。
シャンプーをしても、掌は抜け毛でいっぱい。
…そりゃ詰まるよな…
なんてことを、その時は普通に思っていた。
そういう状態から抜け出すのに5日くらいかかった。
とうとう手持ちの金が寂しくなってきて、否が応でも銀行に行かなければいけなくなったのだ。
宿の人に場所を聞き、歩いて街まで降りる。
そこで初めて気が付いた、ブダペストって、ドナウ川を挟んでブダ市とペスト市に分かれてるんだ…しかもブダ市のなんと華やかなことか。
。。。あ、バーガーキングがある。。。
初めてドナウ河を目の前で見て、自然と涙が零れた。
(四)
この河は、今の自分の気持ちなんかとはまったく関係なく悠悠と流れている。
なんと人間のちっぽけなことか。
つまらないことに悩んで苦しんであれこれ考えて、挙句の果てには、来たばっかりなのにもう日本に帰りたいと。
なんだ、ただのホームシックじゃないか。
このまま日本に帰ったところで、誰も自分のことを受け入れてなんかくれない。
だってこの苦しみを知ってるのは他ならぬ自分だけ、いくら口で説明したところで、心から理解してくれる人なんか誰もいやしない。
嘲われるだけだ。
それならいっそ行けるだけ行こう。
回るだけ回ろう。
そして本当に我慢できなくなったら、その時日本に帰ればいい。
せめてあと2ヶ月は。。。
実はこうなったのには理由があって、ブダペストの後、ブルガリア・ポーランド・チェコスロヴァキアと、東欧を回る予定だったのだ。
その為に、わざわざ観光ビザまで取った。
つまり、有効期限があったのだ。
だから先に東欧を見て回ろうと。
ところがいざ来てみると、その社会情勢にかなりの不安を抱いた。
果たして本当に宿泊施設はあるのだろうか、とか、そういう、根本的な不安を抱かざるを得なかった。
しかしこうなって初めて、開き直ることができた。
なかば捨て鉢になれた。
予定なんかないのに勝手に自分で予定付けてそれに従おうとした結果がこれ。
予定に縛られて、同時に自分自身を縛り付けていたのだ。
何もわざわざ無理して東欧諸国を回る必要はないじゃないか。。。と、ガイドブックについてる欧州全体図を広げる。
ブダペストから一番近い東欧以外の国は、オーストリアのウィーンだった。
(五)
よしじゃあウィーンだ、ウィーンに行こう!!
息巻いてガイドブックを開く。
いろいろ書いてあるなぁ、東欧とは比べ物にならないくらいいろいろガイドしてあるぞ。。。これならなんとか。。。
列車のチケットは日本で買ったユーレイルパス*がある。時刻表も持ってきてる。
あ、ウィーン西駅の地図も載ってるぞ。ここで宿を探して、ここで両替して、トイレはここにあって、と駅全体の地図を頭の中に入れる。西欧6ヶ国語の旅行会話集を開いて、いざって時のためのドイツ語もさらっておく。
準備は万端だ。
その晩、宿の母屋で夕食を摂る。
そうか、ハンガリーもこれが最後か。。。と思うと変に度胸もよくなる。
勇気を振り絞り、片言の英語で、この国のオリジナルの酒はないか?(ようするに地酒ね^^;)と聞くと、当然「ある」との答え。
「じゃあそれをくれ」
「甘口と辛口があるがどっちがいいかね?」
「どっちがお勧め?」
「どっちもお勧めだよ」
…そりゃそうだ。
「じゃあ…どっちがよく出る?」
「うーん、甘い方かな」
「よし、じゃあ甘い方をくれ」
運ばれてきたワインに口をつけると、これが驚くほど甘い。
そして旨い。
あまりの旨さにしばし呆然、宿のオヤジはさりげなく自慢気で満悦至極感たっぷり。
「もう一杯呑むか? 喜んでくれて嬉しいよ、サービスしてやろう」
TOKAJI(トカイ)という名のワイン。
TOKAJI地方のワインだそうだ。
今は日本でも手に入るが、当時は聞いたこともなかった。
自分はなんて幸せだろうと思った。
そういうものに出会えたことが、そして気が付くことができて、自分にしかない「オリジナル」が、初めて生まれた気がした。
ウィーンでもそういうものに出会えるだろうか、願わくば出会いたい。
*ユーレイルパスEURAIL Pass/西ヨーロッパ17カ国で利用できる鉄道パス。各国の国鉄(または国鉄に相当する鉄道会社)の運行する列車を無制限に利用できる。持参したのは3ヶ月連続タイプ。他にも、日にちを選んでお使いになれるフレキシータイプ(2ヶ月中の10/15日)がある。
(六)
それがブダペスト最後の夜のこと。
翌朝、時刻表で調べた列車に乗り、一路ウィーンを目指す。
列車の時間までまだ少々あったため駅の周りをうろうろしていたら声をかけられた。
同じバックパッカーで、ギリシャから来たと言う。
彼はこれからチェコスロヴァキアの方に向かうらしく、その列車待ちをしていた。
どんな会話がそこであったのかは覚えてないが、唯一覚えているのは、別れ際に彼にこう聞かれたことだ。
「日本語でHelloはなんて言うんだ?」
別れ際だよ?
「Hello? “こんにちは”かな」
「OK!(何回か練習した後)コニチハー!!」
と手を振って彼は離れていった。
列車での旅は結構ワクワクする。
大きな荷物をカートに入れて行き来する人たち、物売り、駅員、見送りの人たち。実に多くの人がいる。
ヨーロッパでの列車の旅ではぜひコンパートメントに乗りたいと思っていた。
オープンサロンではなく、個室。
まぁ、個室といっても、3人掛けの椅子が向かい合い、それぞれが壁で仕切られてるというものだから、完全な個室ではないが。。。
それでもそのコンパートメントに誰も入ってこなければ、6人分の空間を独り占めだ。
映画やテレビで見るような列車に乗り込み、空いてるコンパートメントを探す。
日本でいう寝台列車の作りに似ている。
ドアはガラス張りなので中が見えるから、誰もいないコンパートメントを探し、荷物をおろして席に着く。
さぁ、これから日本では決して味わうことのできない列車での国境越えだ。
パスポートに出入国のスタンプを押してもらいあちこちのページにいろんな国のスタンプを集めるぞ、と意気込む。
ほどなく列車は国境駅に到着。
いよいよだ。
車掌さんが、コンパートメントに入ってくる。
パスポートとチケットを見せる。
さぁ、押すがいい、そのスタンプを!!
…と思っていたのに。
日本の赤いパスポートを見せると、JAPANの表紙を見ただけで、OK。
え…? え、押してくれないの? っていうか開いてもないよね? いいの?
と言うヒマもなく行ってしまう車掌さん。
そんなことをつっこめるほど英語力もない私。
思えば、別に日本語でもよかった。そんなの言えばきっと通じる。
しかしその当時の私は、とかく回りを気にしていた。郷に入ったら郷に従え、という言い訳も用意されていた。
だが、大事なのは自分がどうしたいかであって、回りからどう見られているかではない。
そんなことも判っていなかった私は、「きっとそういう習慣なんだ、ならば仕方がない」と勝手に解釈し納得した。
一人旅だから得られた。
今も時々、「回りからこう見られたい」と思う自分が顔を出す。
その度に、大事なのは自分がどうありたいかだ、と言い聞かす。
悔いを残さないためには、どうしたらいいんだ? と自問自答する。
オーストリア領に入ってから、急に緑が増えた。
(七)
ハンガリー国内では、窓の外に見える景色はグレー一色だったのに、急に明るくなった気がした。
今夜の宿を決めなくては。
ウィーン西駅に着くとすぐにインフォメーションへ、そして紹介してもらったホテルはウィーン西駅より徒歩5分ほどのところにある「HOTEL FUCH」。
もらった地図を頼りに歩くが、一本道なので迷いようがない。
古い街並みや石畳の道が、テレビや映画で見たヨーロッパの雰囲気と違わず、現実感があるようなないような不思議な感覚にとらわれる。
そんな街並みの中にホテルはあった。
たいして大きくもない入り口のドアを開けるとすぐにフロントがあり、こじんまりとしたロビーがある。
雰囲気はいい。
フロントのお兄さんに、来意を告げる。
無愛想なこの人は、すぐに部屋を用意してくれ案内してくれた。
階段を昇るとこのホテルが実は結構大きいホテルだということが判る。
朝食付きなのだが、申告しないと用意してくれない。逆に申告すれば部屋まで持ってきてくれる。
廊下の端に紙があって、そこに若干のメニューが記載されていて、欲しいものにチェックを入れ部屋番号を書き、フロントに提出するだけでいい。
安宿だから当然広くはない。窓からの景色も味気ない。
寒々しい。
しかし、ブダペストとはまったく違う。
僻地の一戸建てから下町の長屋に引っ越してきたような、そんな喜びで胸がいっぱいになる。
ガイドブックを開き、まずは散歩しようと出かけることにする。
フロントで市街地の地図を貰い、ガイドブックに載ってる地図と照らし合わせると、意外なことに寸分の違いもない。
よし、じゃあまずはあそこだ。
ウィーンに来た理由は、実はもう一つあった。
(八)
四つからなる国立劇場で立見席が150円くらいで見れるのだ、これを逃さない手はない、しかもシーズン真っ只中、毎日何かしら上演されている。
ホテルにもそういう案内の小冊子が置いてあった。
まずは下見を兼ねて、広場の真ん前にある劇場に行ってみよう。
人間、目的がはっきりしてるとえらく違うもんだ。
歩いてみる。地図で見るとさほど遠くはない。歩けない距離ではないはずだ。
市電も通ってるが、乗り方が判らない。
できれば歩ける方がいい、電車がなくなったら帰れないなんてことになるとまた面倒だし、足が重くなるに決まってる。
てこてこ歩くこと15分。
市街地を見ながら、あっという間に着いた。道順もいたってシンプル。
次は市電にもトライしてみようかな、なんて気も大きくなる。
とりあえず道も判ったし今日のところはこれでよしとしよう、と帰りにスーパーらしきところでパンと飲み物を買って帰る。
こうして、結局ウィーンには2週間近くいた。
毎日、「もう一泊できるか?」を繰り返していた。そしてついにはフロントのお兄さんの方から「もう一泊?」聞いてくるようになったほどだ。
この無愛想なお兄さん、実は話してみるとものすごくいい人で驚いた。
市電にも乗れるようになったし、観光もした。
買い物もしたし、いろんな人にも会った。
急に楽しくなった。
このままずっとウィーンにいたいとすら思った。
なんて居心地がいいんだ、住むなら絶対にここだ、一人旅のはずなのに孤独感がまったくないなんて。
「HOTEL FUCH」が、我が家のように感じられた。
しかしそこから離れる理由も、やはりブダペストの時と同じだった。
このままウィーンにいるのは簡単だ、でも、あっちこっち見ないと判らないこともある。その上で、やはりウィーンがよければまた戻ってくればいいだけの話じゃないか。
さあ、では次はどこへ行こうか。
この当時は、自分が役者になるなんて思ってもみなかった。
しかし、この頃観た芝居やオペラは、大体覚えてる。もちろん言葉は判らない。しかし雰囲気がやたらと印象に残っているのだ。
今こうして仕事をしていると、実はウィーンで一度見てるオペラに出演していたり、知り合いが出演していたりする。
縁というものは、本当に不思議な作用をするもんだと、あらためてびっくりし、そして身近に感じられることを嬉しく思う。
ザルツブルグがモーツァルト生誕の地であること、それはガイドブックを見るまで知らなかった。
(九)
ザルツブルグの駅に降り立つと、ウィーンがいかに賑やかだったかを実感する。
…何もない…
列車の外で流れていく景色もそうだった。
ホームに降りても、ただそこがザルツブルグであることしか示していない。
困った、インフォメーションもないぞ…
とりあえず、ガイドブックを開き、駅周辺の宿を当たることにする。
ある程度目星をつけて飛び込んだ宿は、幸い英語が通じた。
感じのいいステキなおばちゃんが迎えてくれたこの宿に思わず決めてしまい、部屋に落ち着くと、とたんに腹が減ってきた。
長居をするつもりはない。
部屋でガイドブックを開き、行きたいところをチェックする。
へぇーモーツァルトってこの街で生まれたんだ…でもそんなことよりホーエンザルツブルグ城の方が興味あるなぁ…モーツァルトの生家は行けたらでいいや、などと音楽家を志してる人が聞いたら怒られそうなことを思う。
よしじゃあまずはあそこに行ってあそこにも行ってああしてこうして、で、明日ザルツブルグを出発して…
なぜか急いでた。
別に理由はないし、急いでるつもりもない、その必要もないのだから。しかしやたらと急いでいた。
それは、この先に控えている日本への帰国だった。
さっさと終わらせて帰る、という目的。
こんなこと、もちろん今思えばものすごくもったいないことだし、無為なことですらある。
しかしこの当時の私はこれぐらいでないと精神的に立っていられなかった。
現実感がなく、奥まで覗こうとしない。表面だけをさっと拭き取り、きれいに掃除をした気になってるのと同じ行為だ。
日本を離れてまだ一月も経っていない。
(十)
ブダペストにいた頃、どうせならいっぱいあっちこっちに行こう、と思ってガイドブックを開いた。
場所は特に気にせず、少しでも面白そうなページがあったら、目次に書いてある地名にチェックを入れた。
すべてのページを見終わって、チェックした場所を地図で調べる。
次の場所はウィーンで最終地はロンドンと決まっていたから、それは変わらないとして、その間を、どのようなルートでどういう風に西欧を回るか大まかな道順を決めた。
この時点で正月に帰国を決めていたから、残りの一ヵ月半をどう過ごすかを思案していた。
この当時私は在籍していた大学で演劇のサークルをやっていた。
高校生の時、芝居に、というか役者に興味を持ち、ぜひともやってみたいと思っていて、大学に入学してから初めて芝居をやった。
この年で3年目、サークルの基盤も方向性も固まってきた頃だったので、とにかくみんな仲が良かった。
見事に芝居好きが集まった。
海外に出てから、彼らのことばかりを想うのだ。
早く帰りたいというのも、日本に、というより、その仲間の元に、という意識が強かった。
今、芝居を生業としている。
舞台が生きる場所になっている。
これまで随分いろいろな舞台に乗ったが、またこのメンバーでやりたいと思えるカンパニーは非常に少ない。
(*自分が関わったカンパニーではということであって世間一般ではないのでご了承ください)
しかし彼らは、数少ない「またこのメンバーでやりたい」カンパニーの一つだ。
そこに想いが行ってしまうのも当時としては仕方のないことだった。
早く帰ってまた彼らと芝居を創るぞ。
では残りの一ヵ月半をどうするか。
じっとしていても時間はなかなか流れない、よしじゃあ動いて忙しくしていればすぐに時間なんて経つだろう、と。
しかし、時間と共に私の中にもヨーロッパ的な時間の流れ方が芽生えてくる。
無論それはまだまだ先の話だが…。
だから、パリまではあっという間だった。
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