(二十一)
間違いない、ここは南国だ。
駅のインフォメーションで安い宿を紹介してもらい、早速街中へと繰り出す。
緑が多く、樹々は青々とした葉をつけている。
夢のようだ。
かつて大地震がありそれがほとんど復興されていないかのような印象を受ける。
(別のほんとに大地震があったというわけではないと思うが)
街中のあちらこちらで工事をしていて、家の屋根には一部分ビニールが被せてあったり、そのくせ街の雰囲気はどこかのんびりしている。
途中、ヴァスコ・ダ・ガマの像に出くわす。
歴史的にも有名な彼の銅像の周りには、多くの自転車と車が駐車されている。
それが逆に、これは決してあなたたち外国人観光客のために建てたものではありませんよ、という雰囲気を強く醸しだす。
国民の、彼に対する敬意を感じざるを得ない。
そう思って街中を見渡してみると、パリやウィーンのように目立ちはしないが、細かいところにいろいろな装飾が施されている。
この国らしい、太陽を模したものが多い。
あらためて、南国だなぁと思う。
エネルギッシュで朗らか、これがラテン系なのかは判らないが、それは今までにない独特のものだ。
この気質に慣れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
(二十二)
ここリスボンでは、今まで以上に駅が静か。
構内のアナウンスもなければ発車ベルもない、当然、車内アナウンスなんてのもない。
駅のホームには、駅名を知らせるようなものが少ないから、目的地に到着したのかどうかも判らない。
たまに構内でアナウンスが入ると、それは、プラットホームの変更だったりする。
すると、電車を待ってた人たちがいっせいに大移動を始めて、また、行き先を知らせる表示が変わる。
リスボンから、ロカ岬のシントラという街に向かう。
シントラ山塊の緑あふれる自然の中にいくつもの城館が散在するポルトガル有数の保有地、町中が植物園のようなこの美しい街をイギリスの詩人バイロンは「エデンの園」と称えている。
リスボンを離れるにしたがって、剥き出しの自然が多くなる。
まるで、ジャングルの中を走ってるような感じ。そして、それに合わせて人々の生活がどんなものか垣間見れる。
本当にここれ辺は観光地ではない。
むしろ、開拓地の感じさえ受ける。
ここで有名なのは、ムーア城。
王宮から、ヒイコラいいながら、およそ1時間。途中、よっぽど引き返そうかと思ったくらいの道を独り登ってくる。
映画みたいに、外敵の侵入を防ぐ罠があるのではないかと気をつけて歩いていたが、どうやら、無事に城に着くことができた。
そして、1時間かけただけのことはある。
すばらしい。
上まで来ると、あっちこっちに城があることが実感できる。
そして、こういう景色を見ると、「帰れるのかな…」と不安を覚えるようなところでも、二、三日滞在してうろつきなる。
ここまであがってくると、さすがに観光客も多い。みんな苦労して登ってきたのか、お互い声を掛け合う。
そして、いろんな国籍の人がいることにびっくり。
この、おおらかな気持ちを胸に抱き、ゆっくりと次の一歩を踏み出す。
(二十三)
そして、ポルトガルを出国し隣国スペインへと向かう。
前回パリからリスボンへと来た時に乗った列車は、スュード急行というが、今回、リスボンからマドリッドに向かう列車は、ルシタニア急行。
いずれも人気の鉄道の一つ。
どちらかというルシタニアの方が綺麗な印象を受ける。
外観も、かつてのブルートレインを思い起こさせる。
寝台列車なので、夜出発し翌朝マドリッドに到着予定。
ホームでも特に迷うことなく、特に困ることもなく、チケットに書かれた車両へと向かい、コンパートメントに入る。
既にベットにセットしてあり、かなりおしゃれな感じ。
しかし…、…狭い!!
さすがは二等というべきか…
まぁ一晩だけだから我慢できよう、ベットがあるだけマシだし、なんて思ってリュックをおろし、ベッドに横になる。
(このずっと先のことになるが、よもや空港のベンチで夜を明かすことになろうとはこの時には夢にも思わなかっただろう)
夜中、随分電車の揺れを感じるが、さすがにその程度で慌てることもなくなってきた。
思えば随分度胸もついた。
どうにかなるさ、という気持ちが、前向きに生きるようになってきていた。
(二十四)
朝靄の霞む中、マドリッドのホームに降り立つ。
そこが終点だから、全員下車。
どこにそんなにいたんだ、というくらい多くの人が車内から降りていく。
そして、それと同じように、多くの客引きの姿。
しかし、他の人は既に宿が決まっているのか、もしくは当てがあるのか、わき目も降らずに外に出て行く。
リスボンと違って寒いな、と思ってホームで佇んでいると、何人かのおやじ連が近づいてきて、ひたすらに我が宿をアピール。
どこにも誘われるつもりがなかったのだが、一人だけ、やたらと親切で、しかも日本語のカードまで出してきてアピールしてくる。
その人懐っこさ。
それに絆されてか、なぜか一緒に地下鉄に乗り、ソル広場・マヨール広場を案内してくれて、しかも地下鉄の乗り方まで親切に指導。
連れて行かれたその宿は、マヨール広場のすぐ近くにある、一見無愛想なおかみさんが迎え入れてくれた(もちろんそのおやじとは夫婦)家庭的なペンション。
騙されたと思ってついてきて正解だった。
さてその夜、部屋に隙間風が入ってくる。
おかみさんに、
「寒いんだけど、毛布かなんかある?」
と聞いたら、
「寒い? そしたらそこのマヨール広場で騒いでる連中と飲んでくれば暖かくなるよ」
なるほど。
って、こら。
「ほら、クリスマスが近いからみんな浮かれてるのさ」
と窓を開けて説明してくれる。
確かにうるさいくらい盛り上がっているし、時間に関係なく明りが灯りいつまでも賑やかな雰囲気を醸し出している。
しかし、正直言ってちょっと怖い。
だってもう夜も11時近くだし、治安もどうか判らないのに、そんなとこにひょいひょい行ってもよいもんなんだろうか、と。
「一杯呑んでおいでよ」
やむなく言われるがままに外に出る、いや好奇心もちょっとある。
広場までは、歩いて2~3分。
本当に危険だったら、おかみさんもそんなことは言いはしないだろう、と、心臓をバックンバックンさせながら広場に入っていく。
ぐるりと広場を一周し、飲み屋やそこで飲んでいる人たちを見学、そして30分くらいで宿に戻る。
「あったまったろう?」
と、おかみさんが声をかけてくれる。
確かに。
呑みこそしなかったが、広場に充満している熱気や活気に包まれたせいか、体が火照ってる。
「うん」
「よかったよかった。おやすみ」
このおかみさんといい、広場での騒ぎといい、スペインの一部を生で見て感じた気がした。
(二十五)
昼、マドリッドの街を歩いていると、ふとあることに気がついた。
それは、今まで全く気がつかなかったわけではないが、あらためて、認識できたことでもあった。
ポルトガルに行って初めて、同じヨーロッパの人たちでも、顔が違う、と強く思った。
ポルトガルの人は、黒髪の人が多い。
そして、目の部分の窪みが、さほど、ない。
だから後姿だけ見ると日本じかと思ってしまう。
スペインの街並みを歩いて人々を見て、やっと東洋人と西洋人との顔のつくりの最も違うところが判った気がした。
今までは、鼻の高低が一番の差かと思っていたが、実は、目の窪みが一番はっきり判る。
ウィーン・チューリッヒ・パリでは、自分の顔が本当にまっ平らに思えた。
鼻の高い人がたくさん自分の前を通っていく中、時々アジア人を見ると、なおさらそう思う。
でも、彼らの鼻が異様に高いわけではない。
眉が出て瞼が引込んでいるから、余計に鼻が高く見える。
要するに、ホリが深いのだ。
ポルトガルなんてスペインの一部のようなもんだから、なんて思っていたが、全くそうではなかった。
スペインはスペイン、ポルトガルはポルトガル。
そして、どこの国も、それぞれ独特の雰囲気がある。
(二十六)
ヨーロッパの首都の中で最も標高が高いマドリッドから、一路バルセロナへと向かう。
またもや夜行になるので、クシェットのチケットを取った上でホームに向かうと、チケットに記載されている列車の車両が、どこにもない。
いや、列車は止まっているんだけど、なぜか偶数車しかない。
チケットを見ると、奇数車。
おかしいな、と思って車掌さんに聞いてみると、なんと逆方向のチケット。
つまり、間違えて、バルセロナからマドリッドに向かう列車のチケットを買い求めてしまったのだ。
そうか、だからあの時窓口のおじさんは変な顔をしていたのか…
やむなく二等の座席に乗り込む。
適当なコンパートメントを探すが、どこもいっぱい。
何でこんなに混んでるんだ、と手違いからの苛立ちと疲れが一気に出て、どこでもいいから座ってやれ、と空いてるコンパートメントに入り込む。
向かい合い8人席のコンパートメントに5人。
バルセロナからはそのまま南へ、イタリアへ行くつもりなので、今後こういうことがないようにちゃんと確認しなきゃ、と実感。
(二十七)
7:00着。外はまだ暗い。
せっかくここまでやってきたのだから、と、オリンピックの雰囲気だけではなく、あと200年かかると言われてる、なんとも怪しげなSAGRADA FAMILIA(聖家族教会)を拝んでやろうと地下鉄でやってくる。
幸い駅名が同じなので判りやすい。
地下鉄から出口に向かって階段を上って地上に出てみると、目の前に、とうもろこしの芯が4本…ドーンと聳え立っている。
その芸の細かさといったら。遠くから見ても判るほど。
キメの細かいその細工が、なんとも立派で立体的。
既にほとんど完成している方の4本の塔は、てっぺんまでエレベーターが通っているが、階段もあったので、
「おおかた途中までしかないだろう」
と高をくくって登り始めると、なんとエレベーターの上、ホントのてっぺんまであった。
その、道(階段)の細いこと狭いこと。
降りてくる時なんて、足がガクガク言ってほんとに落ちるかと思った。
頂上まで、ちょうど391段。
まったく、登る方も登る方だが、作る方も作る方だ、階段の背の所に、ご丁寧に20段ずつ数字が彫ってある。
頂上まで来て、ようやく上のほうがどうなっているのかが良く判った。
上の方で道が入り組んでいて、テラスに出られたり(でもそこに出てゆっくりする気分にはとてもなれない)、また隣の塔に繋がっていたり(でもそこを渡る勇気はない)、まるで迷路。
と、同時に。
確かにこれは完成まであと200年はかかるな、と。
(ちなみ着工は1800年代)
ガウディもとんでもないことを考えたもんだ…
そして、その気持ちも。
今なら、少し判るような気がする。
(二十八)
聖家族教会だけではなく、バルセロナの街は、至る所にガウディの作品が目に付く。
美術館だけではなく、公園のベンチ、マンションやアパートといった、今も尚普段の生活の中に溶け込んでいて、人々の日常の中に存在し続けている。
これが、バルセロナだ。
安い宿が、YHしかなく、やむなくそこに決めると、安い上に朝食もつくし、たまたま日本人と同室になった。
彼に連れられて、初めてパブに行く。
人と呑むのなんかものすごく久しぶりだし、ましてやパブなんて行くのは初めてだ。
話すことと言えば、お互いの身の上話や、情報交換。
そして、久しぶりの日本語。
やっぱり「上には上がいる」もんだ。
彼の話を聞いてそう思った。
彼は、夏の三ヶ月間、KIBBUTZ*(キブツ)というボランティア団体に参加して、イスタンブールにいたそうで、
「朝4時に起きて、仕事。いやー、人間って強いなぁって思ったよ。メシとかも、本当にまずいんですよ。喰えないくらい。で、仕事はハードだし…俺死んじゃうよ! と思って、いや死ぬくらいなら喰おうって。で、日が経つにつれて、だんだん慣れていったんですケドね」
すごいな…ホントに。
今の自分の生活が天国に見える、優雅だなって。
そして、自分のやってることが、ただのガキの散歩なような感じ、何やってんだろう、何かやった方がいいんじゃないか、どうせ遊ぶなら…と。ヨーロッパを歩いたことが、なんの自慢にもならないことが、強く思い知らされた。
強くなりたければ、それなりのことをしなくてはダメだ、そう思える。
その、「それなりのこと」が思いつかないが…
彼みたいな体験をしてると、どこへ行っても平気だなぁって思う。
ヨーロッパにいると、いろんな人に出会うけど、みんな、自分をしっかり持っている。そして、他人を尊敬することを知っている。
そういう人たちに会って、話をしたり聞いたりすると勉強になる、と、同時に、自分がすごくガキだと思う。
大人には、なかなかなれないぞ、きっと。
*KIBBUTZ=ヘブライ語で「集団・集合」を意味する言葉。イスラエルで生まれた「キブツ」と呼ばれる共同村は、1909年、帝政ロシアの迫害を逃れた若いユダヤ人男女の一群が、パレスチナに帰って最初のキブツ・デガニアをガリラヤ湖畔に作ったところからスタートしました。
彼らは、自分たちの国家建設の夢を実現させようと願って、集団生活を始めました。生産的自力労働、集団責任、身分の平等、機会均等という4大原則に基づく共同体を建設したいと願っていたのです。その第一歩として彼らは農地を買い、風土病(マラリヤ)等と戦いながら、ユーカリの木を植え、湿地帯を開墾し血のにじむような努力をして生活しました。
その後、苦しい労働と共同の努力が実を結び、キブツ運動も次第に大きくなり数も増えてきました。キブツは完全な自由思想に基づいた社会主義の実験台として、今も世界の注目を集めています。
(二十九)
この当時は、
ヨーロッパを歩くだけで、後はすぐ帰国するんだ、
という目標が強くあって、
それが自分自身を縛っていたのかもしれない。
それでもそれぐらい過酷な状況だったし、また、
今と違って実は治安もあんまり良くはなかった。
各地に一泊だけして、次の土地へ…と、
そんな感じで歩を進めていて、
帰国したらあれしようこれしよう、
…ってなことばかり考えてた。
しかし結局はこれで帰ることをせず、
さらにアジア、オーストラリア、アメリカへと
歩を進めるようになる。
と、思いながら、彼と別れ、一路イタリアを目指す。
正直、彼と別れ別れになるのは非常に勇気がいったが、また、逆に彼から勇気を貰い、だからこそ、再び一人旅を始める気にもなった。
19:42
スペイン国鉄に乗り、Barcelona Sants駅を出発。ここから、国境駅Cerbere駅まで行き、クシェットに乗り換え。
この、Cerbere駅から、ローマやリヨン、ジュネーブなど、別々に列車が走る。
クシェットではないので、二等のオープンサロンに乗る。コンパートメントに乗り慣れていたせいか、若干違和感を覚えるも、日本の電車はみんなこうだ、と一瞬懐かしく思う。
22:55
かなり遅れて、Cerbere駅に到着。次は、23:55発予定。
23:56
が、なぜかGeneve行きに乗せられる。ローマに行くはずなのに、なぜ?? と思ってもよく判らない。
とは言え、なんだか似たような人も多く、まぁ、なんとかなるだろう、と腹をくくる。のに、二等のコンパートメントに座ってそわそわ。
そのうちに眠ってしまって、チケットのチェックで起こされる。
「Narbonneで乗換えだからね」
「は??」
なんで? と思いつつ、あっという間に、同席してたおじさんが親切に、
「Narbonneだよ。」
と教えてくれる。見知らぬ外国人のために聞いててくれたんだ…ありがとう…
時計を見ると、
1:20。
ほんとに電車来るのか??
3:00
1:51発のMilano行きの電車を待つ人の数は、とてもこんな時間にいるべき人数ではない。
寒いホームに佇み、いつ来るか判らない電車を待つ。
実に待つこと1時間20分。
ようやく来た電車に我先にとみんな乗り込み、空いてるクシェットを探し中に入り横になると、すぐに夢の中へ。
ふと気がついて目が覚めると、あれだけ混雑していた車内がガラガラ。誰もいない。どうも寝てる間にどこかで降りて行ったらしい。
仕方なく、いつ何があっても大丈夫なように、がんばって起きる。
そして、さぁ…! って時に、コンパートメントのドアが開き、
「この電車はもうSTOPだよ! 降りな!」
「は?」
窓越しにホームを見ると、Ventimigliaと書いてある。
「…はぁー!?」
まったく見覚えなし、記憶にもない。
ここはどこだ??
止む無く慌てて荷物を抱えて飛び降りる。そして、やたらといい天気。しばらく呆然。
困ったな…
のたくさと窓口に向かい、
「ローマに行きたいんだけど」
「次のローマ行きは10:55だね」
あ、よかった、電車あるんだ。
時計を見ると、あと2時間くらい。まぁ、のんびりでいいだろう。地図を広げて、今の自分の現在位置を確認する、ついでに昨夜の場所も見てみる。
スペインとフランスの国境駅、Cerbere駅はよしとして、次に降りたのが、
Narbonne駅。地中海沿いの、フランス領内。しかもCerbere駅から、全然離れてない、ものすごい近場。
どうしてこんなところで降ろされたんだ…?
そして、今いるVentimiglia駅。これも地中海沿い。フランスとイタリアの国境駅だ。…あー…結局は地中海沿いに来たのか…?
「こんにちは」
ふと地図から顔を上げると、そこに日本人の家族連れ。
「あ、ども…」
「次って10:55ですよね?」
「え? …えぇ、そう聞きましたけど」
「いや、実はニースに行くつもりだったんですけどねー…なんでもフランス国鉄がストライキ起こしてるらしいんですよ…(続く)」
ナルホド。。。全ての原因はSNCFか!!
(三十)
「ニースに行くつもりだったんですけどねー…なんでもフランス国鉄がストライキ起こしてるらしいんですよ。明日には収まるらしいんですが、それまでちょっとイタリア側に戻って様子を見ようと思って」
「スト?! あー…それでか…」
「もしかして?」
「え? あぁ、バルセロナから来たんですけど、大変でした^^;」
親子四人のヨーロッパ旅行。
お父さん・お母さん・5歳の長女に3歳の長男。
子供が小学校上がる前に、長期でヨーロッパを廻ることにしたらしく、すでに3ヶ月ぐらい経つという。
「すぐ近くにSan Remoという街があって、音楽祭とかで有名なんですけど、今はシーズンじゃないから素通りしてきたんです。でもちょうどいい機会だからそこまで戻ろうかなと」
そんなこんなで、同じ列車に乗り込む。
その前から、ご両親はもとより子供達とやたらと意気投合してしまい、結局、一緒にサン・レモで下車。
とにかく子供達がべったりくっついて離れない。
家族で旅行とはいっても、やっぱりそこは見慣れぬ異国の地。子供にとっては、同じ日本人の、言葉や仕草、そういう同郷ならではの安心感に飢えていたようだった。
それにしても、人と人との縁とは判らないものだ。
ストがなければ、今頃は独り寂しくローマにいたことだろう。
ストがなければ、絶対に下車するはずのなかった所。
しかし、今、ここにいる。
そして、このままずっと一緒にいたくなる。
それは、自分の心の弱さでもあり、また暖かさでもあるのだろう、そう思う自分が、本来の自分の目的というものを思い起こさせると、
やっぱりこのまま一緒にいるわけにはいかない。
それもまた縁だ。
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