(九十一)
こうして二泊目を迎えた翌朝。
とにかくこれ以上は甘えられない、今日は台北の安宿を探そう、
と決めていたのだが、ジェニーが、
台北のホテルは高いから桃園(TaoYuan)に行った方がいい、という。
あ、そうなんだ、それじゃそうしよう。
ところがところが。
「そんなら車で桃園まで送ってやるよ」
と林さんが言いだし、
「ついでに実家にも寄るか」
「それなら私も一緒に行くよ、心配だし」
と、あれよあれよという間に、ジェニー・林さん・ボク、と三人で車に乗り込み、一路桃園へ。といってもそんなに遠いわけじゃないんだけどね。
これまでの経験上、早めに宿を決めてしまいたい、という思いがあったんだけど、そんな暇もなくあっという間に林さんの実家着。
片田舎の、でもどこか人情味の溢れる雰囲気の村にある林さんの実家には、大家族が住んでいる。林さんの両親はもちろんのこと兄弟から姪っ子甥っ子、お祖母様まで。そして、いまさら言うまでもなく、うん間違いなく林家は大金持ちだ、と実感。
外国人は珍しいお客さんなんだろうか家族総出で物見遊山。
というか、久しぶりに帰ってきた息子扱い。洗濯までしてくれる。
ついでだから気にするな、と。
なんだか、親切、という言葉で片付けてしまうのは申し訳ないほどに親切。
そして、ホテルなんかに泊まらないで家に泊まりなさい、とお母さんが言ってくれて、これまたあれよあれよという間におせっかいになることに決定。
というか言葉は全く理解しあってないんだけどね。
相変わらずジェニー以外には全く英語は通じないし。
(九十二)
そんなこんなで、家族みんなでお夕飯。
しかも台湾家庭料理。美味!!
円卓を囲んで、飛び交う言葉は北京語のみなんだけど、常にジェニーが隣にいてくれるので、肝心なところはジェニーが通訳してくれる。考えても見れば、心許なかったジェニーの英語が、さすがに三日間ボクと英会話しているとかなり上達した。すごいことだ。
その向上心は見習わなくてはなるまい。
さて、その夕食時、円卓を囲んでる時のこと、
「日本から来たんですか」
と、急に、すごくきれいな日本語が飛び出してきた。
びっくりして声の方を見ると、お祖母様がじっとこちらを見てる。
「え…、あ、はい。日本から来ました」
「そうですか」
「え、あの…どうして日本語…」
「あぁ、昔ちょっとだけ習ったのよ。忘れないものね」
言うまでもなく、一瞬にしてうるさかった座がシーンとなって、この不思議な会話に呆然としてる。家族の皆さんには一体何が起こったのか全く判ってない様子。
お祖母様は、
「昔はね、日本軍がここら辺を守ってくれていたのよ。その時私は小学生で、学校は日本語で授業をしていたの。だからよ」
(九十三)
まるでネイティブのような日本語で言ってから、もう一度北京語で言う。
すると家族の皆さんは、あぁー、となるんだけど、どうやら誰一人としてお祖母様が日本語をしゃべれることを知らなかったらしい。
その後はもう大騒ぎ。
みんながお祖母様を通訳代わりにどんどん質問してくる。
これまでジェニーがその役をやってくれていたので、みんながジェニーを通してボクと会話をしていたんだけど、急にその役割が替わってしまって、逆にジェニーに対してものすごく申し訳ない気持ちになってしまう。
それでも最後まで面倒を見てくれたジェニー。
その日は、次の日仕事だからとさすがに帰っていった。そして最後に一枚のメモ用紙を渡してくれて、何か困ったことがあったらこれを見せれば大丈夫だから、と言う。
そこには北京語で、
「彼は日本から来た学生です。北京語が話せないので、英語で話してあげてください。困ったときには助けてあげてください」
といった内容が書かれてある(らしい)。
どうしてそこまでするかって? 君は困ってる人がいても放っとくのか?
そんなのに似てる。
(九十四)
ジェニーはほとんど英語ができない。
それなのに、彼女とはずいぶんと多くの会話を交わした。
時に中国語で、時に英語で、もちろんボディランゲージも忘れることはできない。
それが不思議なのか、当たり前なのか。
胃の痛くなることもあったけど、楽しいこともたくさんあった。
いろんな国を旅してて、こういう友人ができたのは初めて。
だから余計に新鮮で、戸惑うことも、面白いこともいっぱい。
出会ってから三日も経ってないのに、まるで随分前から知り合ってたような感じすらした。
彼女ほど国際的という言葉が当てはまる人は見たことがない。
本当の国際人は、言葉なんて関係ないのかも、ということを彼女が教えてくれた。と同時に、何かに囚われている自分がはっきり見えたような気がした。
そして、台湾に来て本当に良かった、と心底思った。
(九十五)
三泊目を林さんの実家で迎えて、翌朝、高雄に向かうために、林さんが桃園駅まで車で送ってくれる。
やたらと人が多く、そしてホームの雰囲気も一昔前の日本に似ている。周りの景色を見ても日本を思い起こさせるものが多く、アジアという共通感を覚える、不思議な感覚。
林さんが窓口まで一緒に行ってくれて、高雄行きの切符を購入。予約制なのか判らないが、切符を買ったら席が指定されていた。
14:33桃園駅発、「復興115号」という特急。
林さんに解説してもらい、指定された号車に乗り、
「台北に戻ってきたらジェニーに電話しろ」
と言って手を振ってくれる林さんと別れを告げてから、自分の席に行くと、すでに人がいる。切符を見せて「ここは私の席だと思うが」と言ったら、すぐに席を立って、違う空いている席へ行く。
なるほど。
ここはヨーロッパではないのだ。
19:57、高雄駅着。
暑い(ちなみに4月初め頃)。台湾という小さな島で、南と北とこんなにも違うもんなのか。
とりあえず宿だ、とガイドブックで目星をつけていた宿へと向かう。
受付にはおじいさんが一人。片言の日本語を使う。
バス・トイレ付でNT$350(ニュー台湾ドル)。約1750円。
安い、この値段で風呂付の部屋に泊まれるのは嬉しいかぎり。
とにかく高雄は暑いから。
(九十六)
ジェニーや林さんからも判るように、台湾ではほとんど英語が通じない。結構な中級ホテルでさえそうなのだから、ボクにとっては非常に困る。
しかし、やっぱり人はすごく良い。
宿には、受付のおじいさんの娘さんなのかお孫さんなのか、判らないけど、女の人が一緒に働いていて、彼女は英語が全くしゃべれないのだが、根はすごく親切。雰囲気に滲み出ているほど。
高雄には夜着いたので、先輩への連絡は翌日に持ち越し、少し街を歩く。
と、やはり台北と同じように、交通状況がすさまじい。皆が皆スクーターに乗って移動していて、車線とか信号とか、なんかあってないようなもんだよね、と思うくらい。
ふと気になってよく見ていると、ほとんどのスクーターのシートの後ろに「石橋」と書いてある。しかも手書き風。
え、名前書いてるのかな、でも石橋って日本人みたいだし、しかもほぼみんなが「石橋」って、と思っていたら、時々「鈴木」さんや「本田」さんもいる。
あぁ! スズキにホンダにブリジストンね!
街並みは、工事中のところが多い割には、賑やかで派手派手しい雰囲気で、通りによっては、屋台が多く出てすごく賑やかなところもある。連日のお祭りのような雰囲気はすごく面白い。
台湾全体が、一昔前の日本のような雰囲気を持ち、無論そこに住む人々もそうなのだが、その反面、世界各国の良いところをどんどん取り入れている。
どことなく、今低迷期にあるような雰囲気のする台湾は、それを抜けた時に大いに変わるだろう。
不思議なとこだ。
(九十七)
翌日、前もって知らされていた番号に電話をしてみると、一向に電話に出る気配がない。
かなり当てにしていたのと、実は台湾を離れる飛行機の日時も近づいているということも相まって、焦燥感がものすごい速さで募り始める。
そしてついには日本に国際電話をかけて、もう一度所在を確認することに。
ところが国際電話をかけられる電話がほとんどなくて、ようやく高雄東駅で発見。
しかし今一つ使い方が判らない。
仕方ないので高雄東駅のインフォメーションまで聞きに行くと、たまたまなのか、そこに勤務していたお姉さんが英語が堪能で、色々と教えてくれて、世話をしてくれる。
そしてようやく電話が繋がった違う先輩に、
「○○先輩って今台湾ですよね? 連絡先をもう一度確認…」
「え、○○なら今俺の部屋にいるよ、替わろうか?」
「は?」
「やぁ久しぶり、今どこにいるの?」
「…高雄です」
「そうなんだぁ、俺先週帰ってきたんだよ」
…もう結構です…
ということで、なんだか非常にがっかりして、仕方ない、とりあえず台北に戻っておこうかな、とお世話になったお姉さんにお礼を言って宿へと引き返す。
さて、夜になって再び高雄東駅に戻ってくると、台北まで行く列車がない。
なんか、雨の影響かなんかで線路が塞がってしまったんだとか。
えー…じゃあどうすればいいんだよ…
と、困っていたら、国際電話でお世話になったお姉さんに声をかけられた。そして、夜行バスがあるからそれなら台北まで行けるよ、と教えてもらう。さらには、バスのチケットを買うのも世話をしてくれて、バスの発車時刻までまだかなり時間があったので、中に入ってきなさいよ、とインフォメーションオフィスの中へと案内される。
少し話し込んでると、どうもバスが三時間くらい遅れていることが判明。
仕方ない、とそれほど悲観的にもならずに諦めていたら、折よくバスが入ってきて、
「お前あれに乗りたいか? 友達が乗務してるから乗せてやる」
と、言って慌ててそのバスまで駆け込んでいく。
(九十八)
本当は、22:00高雄東駅発の國光號に乗る予定だったんだけど、お姉さんのお陰で、30分も早い21:30発のバスに乗る。
でも、待っている人がすごい並んでいて、なんだか申し訳なく、窓の外で手を振ってくれるインフォメーションのお姉さんに別れを告げて、一路台北へと向かう。
40人くらいしか乗れないバスで、車内にはトイレもある。
途中、1:46、泰安で休憩。
2:30、台北着。
…どうしよう…
とにかく宿だ。寒いし。
と思っても、開いてるホテルなんてほとんどない。
夜中にやってきてホテル選びなんて贅沢できず、仕方なく、ちょっと高そうなホテルの門戸をくぐる。そのくせ、もっと安い部屋を、というわがままを聞いてくれた受付のおじさんは、ここのホテルは高いよ、ヒルトンの方が安いのに、と言う(そんなことはない)。
バス・トイレ付、朝食なしでNT$1700。約8500円。高い。
翌朝、約束通りジェニーに電話しようと思ったんだけど、いかんせん直通の電話ではなく宿舎の呼び出しになるため、どうしても言葉が通じない。
困っていたら、食堂のお姉さんとポーター氏が手伝ってくれる。
が、結局ジェニーは不在で繋がらず、仕方ないこれもまた縁だな、と思い、その後しばらくポーター氏と、ジェニーや林さんとのことで話し込む。
すると何を思ったのか、
それじゃもうすぐ仕事が終わるからお前部屋で待ってろ、俺が案内してやる、
ということに。
しかも、翌朝早くに台湾を発つ予定なのを知ると、勤務日でもないのにわざわざ朝早くにホテルまで来てくれて、空港行きのバス停まで連れて行ってくれて、見送ってくれる。
最後まで台湾人の人情味に助けられるとは。
人は、一人では生きていけない。それを痛感。
(九十九)
ポーター氏に見送られ、朝早くから行動を開始。
目指すは、オーストラリア・Perth。到着予定は夜中なので、一日かけての移動になる。
いい思い出も、いやな思い出もある台湾に別れを告げて、まずは香港へ。
台北は曇っていたのだが、香港は大雨。
そんな大雨の中、無事に香港国際空港に着陸。
ほっとして窓の外を見ると、他の飛行機の後輪が地に着いた瞬間、バッと水しぶきを上げる。よくスリップしなかったなぁ、と、いまさらながらパイロットの腕に感心。
台湾から香港まではタイ航空だったけど、香港からはQantas Airways。
久しぶり、懐かしいなぁ、と独り言をいう。
雨のせいか、欠航や遅れが出ている中、時折「Japan Air Lines~♪」という放送が日本語で入る。そういうのを聞くと、なんか日本にいるみたいな気になる。
香港を飛び立って、途中、19:20シンガポールに着陸。時間があったので空港の中を多少ふらふらして、再び機内に戻り、20:40、テイクオフ。
そこから4時間かけて、1:30、無事にパース国際空港到着。
実は香港でもそうだったんだけど、パスポートコントロールの他に、また違うチェックを受ける。なんでだろう、引っかかりやすい顔してるのかな。
次のフライトのリコンファームも気になって、タクシーででもいいから街の方に行こうかな、とも思って外に出てみるも、残念ながら、車一台どころから、人っ子一人いない。
目の前に広がるのは漆黒の闇ばかり。
街灯もなければ、街の灯りも届かないのか、満点の星空、ものすごく美しい、降ってきそうなほどの星空、だけ。
そりゃそうか、時計を見ると午前2:00過ぎ。仕方ない、はじめから覚悟していたことだし、と、空港のベンチに寝袋広げてリュックを枕に横になる。
空港のベンチで寝たのは初めてだけど、ちょっとクセになりそう。
(百)
翌朝、快晴の中ベンチから起き上がり、さて、それじゃ街の方に行って宿を探そう、と思って外に出てみると、昨夜の漆黒の闇の理由が判る。
目の前に広がるのはただただ草原と森と山のみ。
すごい。
が、エアポートバスもタクシーもない。
来る気配すらない。
人に聞こうにもインフォメーションには人の姿もなくただボードが並んで観光案内や宿のチラシが挟まっているだけ。
どうしよう、さすがにこれは初めてのことだし、ずっと空港にいるわけにもいかないし、っていうか一体どうなってんだ?
と途方に暮れていたら、車でやってきたアコモデーションのおばさんに声をかけられた。
そのおばさんは、定期的に、自分のところのアコモデーションのチラシを空港に置きに来ているんだとか。
「バックパッカーなの? どれくらい滞在するの? 宿泊先は決まってるの?」
とか聞かれて、
「それなら家においでなさいよ、一週間いるなら一泊A$9(オーストラリアドル)でいいから」
「やった、良かった、助かった!」
と、そのおばさんにホイホイついていく。
「なんでバスもタクシーもいないの?」
と聞いたら、
「あら、電話すれば来てくれるわよ。それか予約ね」
だって。
国際空港でそれはどうなんだろう。
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