2009、3/28(sat)2:08、訃報が入った。
諸事情により爆睡中。
5:40頃電話で起こされ、あらためて訃報を知り、その足で向かう。
2:00頃から5:30過ぎまで、
電話した方は、そりゃヤキモキしたことであろう。だって電話しても出ないし、留守電になっちゃうしね。
7:00前に到着。
泣き崩れてる人と、がんばってる人。
とりあえず故人の顔を見ると、なんかしらないけど、笑ってるし^^;
苦しんだ後も見えない。
死因は、膵臓癌。
全身に水が溜まりむくんでいる。
下半身はもとより、胸まで。もちろん手も。
触ると、まだ暖かい。し、死後硬直も見られず、まだ動く。
そっと右手を握ってやる。
7:45頃、葬儀屋に連絡。
その前に一度泣き崩れてる人が連絡したらしく、その時のあまりにドライな対応に泣き崩れてる人は相当おかんむり、というか取り付く島もないほど感情的。
で、とりあえずドライアイス等を持ってこさせる。
どれくらいで来れるかと聞くと、20~30分かかるというので、8:15までに来いと怒鳴りつけ電話を切る。
それが利いたのか、思ったよりもずっと早く、夜間担当の葬儀屋さんが慌てて到着。
故人は介護ベッドに寝ていたので、後に棺に入れることも含め、布団を敷き、その上に専用のシーツを敷いてもらい(ドライアイスを置くため布団が傷まないようにするためのもの)、故人を介護ベッドから布団の上に移す。
怖い。
遺体が壊れてしまったらどうしよう、とか、変なことになっちゃったらどうしよう、とか、とにかく一生懸命に遺体を抱き支え、そこにいた皆で布団の上に寝かせる。
葬儀屋さんは、どうやらまだ(年齢的にも経験的にも)若いらしく、ちゃんとやるんだけど、今にも泣きそうに真っ赤な顔をしている。
そりゃそうだ。
自宅で遺体と向き合うなんてことそうそうない。
普通は病院だ。
あまりにも生々しすぎる。
抜け出た魂は、まだ室内にいるだろうし、それこそ、パッと見、寝てるようにしか見えない。
遺体にドライアイスをあて、掛け布団をかけ、色々、小道具を準備しだす葬儀屋さん。
故人の遺志で、無宗教の葬儀と決まっていた。
ところが改まって無宗教といわれると、今までの生活の中に、いかに仏教が浸透しているかが判る。
例えば、遺体の顔にかけるあの白い布。
あれって、魔よけらしい。
人は、死んでから四十九日の旅に出るんだそうだ。その際、悪霊や悪魔にやられないように魔よけをしなくてはならない。そうすれば無事に四十九日後に三途の川に辿り着けるのだとか。
懐刀も同じ意味。
顔に布をかけるのは泣き崩れてた人が、故人が息苦しそうでかわいそうだとものすごい嫌がり、結局懐刀の方が故人らしいよねってことで、無宗教なんだけど、胸に懐刀を抱かせる。
9:30頃、
では後ほど担当の者が葬儀の打合せに参りますが何時頃にいたしましょうか?
じゃあ諸々あるから、昼過ぎ13:00~14:00頃で。
と取り決めて葬儀屋さんは一旦帰っていく。
そういえばこのベッドはどうするの?
介護ベッドは介護保険を使って一割負担でレンタルしてたもの。
今後何かと邪魔になるし、今日にでも引取りに来てもらおうと連絡すると、今日はとても立て込んでいて時間が決められないのですが、午後のうちにということでもよろしければ、と丁寧に対応してくれる。
もちろんです、よろしくお願いします。
最期を聞く。
それは仏様のようだったという。
水を飲みたいと言い、二口ほど含んで、ごくりと喉を鳴らし、そのまま逝ったという。
気がついたら死んでた、じゃなくて、本当に逝く瞬間に立ち会ったのだ。
目がうつろになる。
瞳孔が開き始める。
死んだかどうかも判らない、そういう、本当の死の瞬間。そこに立ち会えたという。
じわりじわりと、それでも、あっという間だったそうだ。
幸せなことかも。どっちにとっても。
とりあえず、お腹すいた。ご飯食べよう。
と、12:30頃中華の出前を取る。
ラーメン、坦々麺、かに玉、野菜スープ、麻婆豆腐。三人で見事に完食。その後二人は仮眠。
14:00頃、担当の葬儀屋さんが来る。
通夜はいつにするのか、告別式は、とか、祭壇の花や棺の形、すごく現実的に事が運ぶ。
そりゃそうだ。
決めなきゃ何もできない。
結局、無宗教なので、通夜もなければ告別式もない。元々家から出たいと言っていたので、斎場に行く必要もなければ借りる必要もない。
ここでもまた、通夜も告別式も仏事だと思い知る。
で、通夜がないってことは、行事としては、納棺と出棺のみ。
しかも納棺も、仏事ではないからやり方とか作法とか儀式とか、何にもない。
3/31、12:30納棺、13:30出棺、と決まる。
ちょうどその頃、業者の人が介護ベッドを引き取りに来てくれる。
解体し、パーツ毎になった大きなベッドがなくなると、なんとなく、元のこの家に戻ったような気がしてちょっと落ち着く。
気がつけば、16:30になってた。
疲れた、そうだ冷蔵庫にケーキとシュークリームがあった、甘いもの食べたいね、じゃあコーヒー淹れよう。
17:30頃、近しい親族に電話を入れる。
電話する前は、なんて言おうどう言ったらいいんだろう、と困ったけど、困ってばかりいても事は何にも進まず時間だけが過ぎどんどん言いにくくなる。ので、事務的にダイヤルする。出たとこ勝負だ。
皆、絶句。
とりあえず通夜とかないんで、都合のいい時に来てください来てくれますか? できれば出棺の時も、とお願いする。
直接伝えなければならない人がいたので、18:30過ぎに家を出る。
電話では話せたけど、自分の感情を出さずに直接この事実を伝えられることができるのだろうか、とかなり不安になりつつ、20:30過ぎに到着。
話しながら、何度かこみ上げるものがあり言葉を詰まらせるが、何とか取り乱さずに全てを報告。
それだけで済ませるつもりだったのだが、どうしても拝顔したい、と言われ快諾。
家に帰ってきたのは、21:00過ぎ。
3/29、10:00過ぎ、故人と再会。
移動中の車内でふとあることを思いつきつつ、家に上がると、窓が開け放たれ、寒々しい。
なんで? と聞くと、今朝方から死臭が出始め、換気しているんだ、という。そりゃそうだ。もう生きてないんだから、体の内部は腐り始めるだろう。
朝早くに葬儀屋さんが来て新しいドライアイスに替えてくれたらしい。
それとは別に、お香も焚いてある。
そうか、仏式じゃないから、お線香焚かないんだ…。
お昼前、泣き崩れてた人とがんばってた人と三人で、とりあえず3/31の出棺まではがんばってスムーズに事を進めましょう、という話になった時に、
とうとうがんばってた人が泣き崩れてた人にブチ切れた。
人の死は、
本当に大きなものをもたらす。大きな変化をももたらす。
「あなたいくつになったの? 35歳? 35歳にもなって情けない!! 私が35歳の時には誰も味方はいなかった、子供二人抱えて、親にも見離され、あなたのように感情を曝け出すことなんて甘いことはできなかった!」
思えばこの言葉が泣き崩れてた人を復活させた。ちなみに一番辛いのはがんばってた人、ブチ切れた人。
それはさておき、臭いが気になりそれじゃ故人も(死んでなお辛い思いをさせるのは)かわいそうだということで、皆で相談し、納棺を一日早めてもらうことにする。
聞くと、棺の中に入れれば、ドライアイスもよく利くという。
今のように布団に寝かせた状態で室内にいて、遺体にドライアイスを抱かせている状態は、いわば、冷蔵庫を開けっ放しにしてるのと同じだという。
確かに。
身内はいいけどそれ以外の人には、この臭いはイヤだよなぁ、ということで、納棺3/30、13:00に変更。
ここで、車中で思いついたことをがんばってた人に話し、生前故人はワインが好きだったので、是非開けてあげたいけどいいかな、と許可を取ると、
じゃあお酒もだね、と言う。
聞けば死の二日前も小さなグラスでワインを一杯呑んだらしく、そうか若い頃は毎晩一升空けてたんだよな、と思い、ワインとお酒を用意。
ワイングラス二つと、お猪口一つ。
二つのワイングラスにワインを注ぎ、乾杯、飲み干す。
ちきしょー、生前呑もうと言われていたのに約束守れなかった、とここで初めて後悔。
13:30頃、昨日電話した親族3人、来訪。
故人と初めて対面する人と同席したくなくて、お茶とか前もって頼んでおいたお寿司とかを準備しつつ、室内を出たり入ったり。
思い出話に花が咲き、18:00頃、ようやく一段楽。
その後、故人の親しい人に電話連絡。
諸々の対応を決めて、新たにもう一本ワインを開栓、乾杯してから、21:00過ぎ退宅。
3/30、10:30頃、三度故人と再会。
まずは新たにワインを一本開栓、乾杯。
すると、泣き崩れてた人の旦那さんが到着してた。海外に、しかも日本への直行便がないところに住んでいるため、最速で来ても、この時間。
旦那さんはユダヤ人でユダヤ教なので、遺体の顔は見れないらしい。というのは聞いていた。
だから、自分なりの別れをすればいいよね、と話していたしそうも言ったんだけど、それでも見ます、という。
12:30頃に、昨日どうしても直接伝えなければいけなかった人たちが来宅。
泣き崩れる。
ありがたい、と思う。ぜひ一緒に納棺してください、と頼む。
13:00頃納棺。
まずは遺体を乗せた布団を、棺が入るように隅にずらし、そのあと棺を室内に入れ、先に敷いたシーツごと遺体を持ち上げ棺に入れる。
重い。
今まで布団に寝てたからか、棺に入れると、妙に窮屈そうに感じる。
納棺に備えて棺の中に入れてあげるものを選ばなきゃね、と用意してたものを取り出すと、葬儀屋さんが、金属性のめがねとかラジオなどはダメなんです…と申し訳なさそうに言う。
要するに、燃やす時に、燃えきらないで化学変化を起こす可能性があって危険だから、らしい。
止む無く、故人が愛用してためがね・ラジオ・補聴器は入れるのを断念。
革ジャンや原稿用紙、手紙、名詞、新聞、帽子、ベスト、など、愛用品を入れる。
棺の蓋は開け閉め自由なので、また何か新たに入れたいものがありましたらいつでも入れてあげてください、と言われ、そうなんだよかったよかった、と一旦蓋を閉める。
臭いがなくなる。
棺に入ってから、また新たに死がリアルになった。
本来なら、このまますぐ出棺だ。
しかしそれではあまりにも時間がなさ過ぎる、非情すぎる、よかったね今日に前倒ししてもらって、これでまたゆっくりお別れできるね、と、結果論とはいえ納棺を早めたことがさらに気持ちを落ち着かせた。
この日は五人で食事。
家にいるものを少し昼寝させて、その後、泣き崩れた人と少し話をし、また別でがんばってる人と少し話をして、結局20:00過ぎにもう一本ワインをあけて乾杯し、その後退宅。
帰りの電車の中、爆睡。
帰宅途中、泣き崩れてた人から携帯に電話が入り、そういえば自宅の留守電に入ってた? 入ってたなら、逝った正確な時間判らないかな? と言われる。
そうかなるほど! とあらためて自宅の留守電を再生すると、ものすごい声が入ってる。
ものすごい言葉が残ってる。
二言三言しか叫んでないのに想いが押し寄せて胸を締め付ける。
こんな時に出れなかったとは、こんな時にすぐに行けなかったとは。
どんな想いで朝まで過ごしたのか、それを思うととてつもない後悔が込み上げてきた。
3/31、出棺の日、9:30頃故人と再会。
早速ワインを一本あけて、乾杯。今日は出棺。
ここまで、比較的時間があったおかげで、みんな落ち着いているし、大きな動揺もない。出棺に、気持ちを向けることができている。
ワインを開けて、グラスを傾けて、棺に収まっている故人の顔を見て、
初めて意味もなく泣けてきた。なんだか腹立たしかった。
泣かせんじゃねーよ的な。
11:00頃、着付けの人が来て、泣き崩れてた人に、喪服を着付ける。
密葬にしてるはずなのに、電報や香典が届き、その対応をしていると、もう12:00。
急いで、そして今回初めて喪服に着替える。
本当は故人の喪服を借りるはずだったのだが、恐ろしいことに、ズボンのホックが止まらない、太った!?
…考えてもみれば、この四日間、喰ってしかいない。しかも結構な量を。
あぁなんてこった落ち着いたら絞らなきゃ、と、泣く泣く自分の喪服を着て、ベストだけ借りることにする。
12:30、親族到着。最後の別れ。
13:00頃、葬儀屋さんが花を持ってきて、また祭壇に飾ってあった花を切り取り、皆で棺の中に収める。中に、桜の枝花を買ってきてくれた人がいて、みんなで、よかったね、と泣きながら遺体に添える。
最後にもう一本開けようか、ビンやグラスは入れられないから、と新しいワインを持ってくると、葬儀屋さんが、よほどお好きだったんですね、と、紙コップにサランラップをして輪ゴムで止めれば零れないから棺に入れてもいいですよ、と言ってくれる。さらに脱脂綿にワインを湿らせ、皆で唇を濡らしてあげる。その数、六種類。四日で六本開けたのか…
13:30、出棺。男手四人で何とか霊柩車に乗せ、
13:45、出発。
14:30、火葬場に到着。
名残も何もなく坦々と進むその事務的流れに、遺族の怒り不満が爆発。
知らなかったんだけど、いわゆる、火葬場で焼き場に入れて、火を点ける作業をするのは喪主らしい。
しかしここのスタッフが、あっさりスイッチをいれ、いつ発火したのかすら判らない。
その上、ご焼香を、という。
無宗教でやっていたのに、今更焼香はないだろう、しかも遺族の感情を鑑みないあまりにも非道な所業。
ちゃんと説明できる責任者を呼べ、と大騒ぎ。
そりゃそうだ。
火葬場のスタッフにしては幾つもあるうちの一つかもしれないが、遺族にとっては、本当に最初で最後で、しかも決してめでたいことではない。
むしろ、
故人の人生や人格が一気に心を占めているど真ん中。
そこに表れた責任者、少しは判っているのか、こちら側の怒りや悲しみを察し、細かく説明してくれお互いが納得の上、これからは自分が最後まで担当させていただきます、と、とりあえずは事なきを得る。??
15:35、焼かれてしまった故人の骨が姿を見せる。
頭蓋骨はもちろん、上半身から下半身に至るまで、まるで標本のように、全て、形を崩さずに残っている。
得も言えない感情が込み上がる。
死が、恐ろしいほどに現実的に無理矢理に突き付けられ、生前の姿と、骨になってしまった姿とが、勝手に心の中でシンクロし、直視せざるを得ない。
そう、直視できないのではく、見ずにはいられないのだ。
全員一旦外に出てから、いよいよ、収骨。
骨壷を前に、集められた骨を入れていく。
普通、箸で一つの骨を二人で挟んで骨壷に収めるが、それは、故人が三途の川を渡る時に上手くいきますようにという想いをこめての「橋渡し」という意味がある。
しかし仏式ではない。
やり方は自由、とりあえずまだ熱いので箸で骨を拾い骨壷に収めながら、冷めてきたら、手で直接すくいあげて収めていく。
細かい骨が、というより、砕けて細粒になった骨が掌にくっつき、叶うならばそのまま自分の掌の皮膚の中に浸透してはくれまいかと、何度も手を擦りつける。
それにしてもその量、そして骨密度たるや! 本当に86歳か?
下半身だけで骨壷は一杯になってしまったので、例の責任者の人が説明をしつつ、骨壷に収められた骨を崩しながらスペースを作り、その上に上半身の骨を収め、最後に喉仏・頭蓋骨を納める。
その場にいた全員で骨壷の蓋を閉め、終了。
骨壷を収めた箱をしっかりと抱き、タクシーに乗り込んで、精進落としの会場へと移動。
渋滞、満開の桜。
これが現実だ。
会場へ着くと、スタッフが待ちわびていたようで、すぐに丁寧に案内される。
密葬ゆえ、参列者は極めて少ない。
陰膳も据え、今日一日を労い故人を偲び感謝を施し、やがて散々とする。
再び遺骨を抱えタクシーに乗り込み帰宅。
故人の希望で流していたCDの音楽が虚しく出迎えてくれる。
24時間4日間、常に流れていた。
故人が寝ていた部屋には、もうベッドもなければ布団もない、故人もいない。あるのは、遺影と遺骨だけ。ただそれだけ。
遺骨と遺影を床の間に置き、簡単に後片付けをし、整理整頓し、あそうだワインワインと遺影の前のグラスにワインを注ぎあらためて乾杯し、今後の事務的な打合せをする日取りをとりあえず決めて、邸を後にする。
22:00過ぎ、帰宅。
力が入らない。
もう、故人と再会することもない。
ビールとワインを呑みながら故人の話に花が咲き、涙が零れ、笑いがおこり、悔いが残り、それでも明日また日は昇る。
全てが終わった。
そして、また新しい道が始まる。
家で逝き、家から出、無宗教のため、初七日とか四十九日とか一周忌とか、なんにもない。何にも囚われない。囚われる必要もない。
残るのは故人を想う心のみ。
それが全て。
さらば、父よ。
去ってしまったことよりも、もうこの世にいないことよりも、もう二度と会えないことよりも、骨になってしまったことの方がショックだ。
諸事情により爆睡中。
5:40頃電話で起こされ、あらためて訃報を知り、その足で向かう。
2:00頃から5:30過ぎまで、
電話した方は、そりゃヤキモキしたことであろう。だって電話しても出ないし、留守電になっちゃうしね。
7:00前に到着。
泣き崩れてる人と、がんばってる人。
とりあえず故人の顔を見ると、なんかしらないけど、笑ってるし^^;
苦しんだ後も見えない。
死因は、膵臓癌。
全身に水が溜まりむくんでいる。
下半身はもとより、胸まで。もちろん手も。
触ると、まだ暖かい。し、死後硬直も見られず、まだ動く。
そっと右手を握ってやる。
7:45頃、葬儀屋に連絡。
その前に一度泣き崩れてる人が連絡したらしく、その時のあまりにドライな対応に泣き崩れてる人は相当おかんむり、というか取り付く島もないほど感情的。
で、とりあえずドライアイス等を持ってこさせる。
どれくらいで来れるかと聞くと、20~30分かかるというので、8:15までに来いと怒鳴りつけ電話を切る。
それが利いたのか、思ったよりもずっと早く、夜間担当の葬儀屋さんが慌てて到着。
故人は介護ベッドに寝ていたので、後に棺に入れることも含め、布団を敷き、その上に専用のシーツを敷いてもらい(ドライアイスを置くため布団が傷まないようにするためのもの)、故人を介護ベッドから布団の上に移す。
怖い。
遺体が壊れてしまったらどうしよう、とか、変なことになっちゃったらどうしよう、とか、とにかく一生懸命に遺体を抱き支え、そこにいた皆で布団の上に寝かせる。
葬儀屋さんは、どうやらまだ(年齢的にも経験的にも)若いらしく、ちゃんとやるんだけど、今にも泣きそうに真っ赤な顔をしている。
そりゃそうだ。
自宅で遺体と向き合うなんてことそうそうない。
普通は病院だ。
あまりにも生々しすぎる。
抜け出た魂は、まだ室内にいるだろうし、それこそ、パッと見、寝てるようにしか見えない。
遺体にドライアイスをあて、掛け布団をかけ、色々、小道具を準備しだす葬儀屋さん。
故人の遺志で、無宗教の葬儀と決まっていた。
ところが改まって無宗教といわれると、今までの生活の中に、いかに仏教が浸透しているかが判る。
例えば、遺体の顔にかけるあの白い布。
あれって、魔よけらしい。
人は、死んでから四十九日の旅に出るんだそうだ。その際、悪霊や悪魔にやられないように魔よけをしなくてはならない。そうすれば無事に四十九日後に三途の川に辿り着けるのだとか。
懐刀も同じ意味。
顔に布をかけるのは泣き崩れてた人が、故人が息苦しそうでかわいそうだとものすごい嫌がり、結局懐刀の方が故人らしいよねってことで、無宗教なんだけど、胸に懐刀を抱かせる。
9:30頃、
では後ほど担当の者が葬儀の打合せに参りますが何時頃にいたしましょうか?
じゃあ諸々あるから、昼過ぎ13:00~14:00頃で。
と取り決めて葬儀屋さんは一旦帰っていく。
そういえばこのベッドはどうするの?
介護ベッドは介護保険を使って一割負担でレンタルしてたもの。
今後何かと邪魔になるし、今日にでも引取りに来てもらおうと連絡すると、今日はとても立て込んでいて時間が決められないのですが、午後のうちにということでもよろしければ、と丁寧に対応してくれる。
もちろんです、よろしくお願いします。
最期を聞く。
それは仏様のようだったという。
水を飲みたいと言い、二口ほど含んで、ごくりと喉を鳴らし、そのまま逝ったという。
気がついたら死んでた、じゃなくて、本当に逝く瞬間に立ち会ったのだ。
目がうつろになる。
瞳孔が開き始める。
死んだかどうかも判らない、そういう、本当の死の瞬間。そこに立ち会えたという。
じわりじわりと、それでも、あっという間だったそうだ。
幸せなことかも。どっちにとっても。
とりあえず、お腹すいた。ご飯食べよう。
と、12:30頃中華の出前を取る。
ラーメン、坦々麺、かに玉、野菜スープ、麻婆豆腐。三人で見事に完食。その後二人は仮眠。
14:00頃、担当の葬儀屋さんが来る。
通夜はいつにするのか、告別式は、とか、祭壇の花や棺の形、すごく現実的に事が運ぶ。
そりゃそうだ。
決めなきゃ何もできない。
結局、無宗教なので、通夜もなければ告別式もない。元々家から出たいと言っていたので、斎場に行く必要もなければ借りる必要もない。
ここでもまた、通夜も告別式も仏事だと思い知る。
で、通夜がないってことは、行事としては、納棺と出棺のみ。
しかも納棺も、仏事ではないからやり方とか作法とか儀式とか、何にもない。
3/31、12:30納棺、13:30出棺、と決まる。
ちょうどその頃、業者の人が介護ベッドを引き取りに来てくれる。
解体し、パーツ毎になった大きなベッドがなくなると、なんとなく、元のこの家に戻ったような気がしてちょっと落ち着く。
気がつけば、16:30になってた。
疲れた、そうだ冷蔵庫にケーキとシュークリームがあった、甘いもの食べたいね、じゃあコーヒー淹れよう。
17:30頃、近しい親族に電話を入れる。
電話する前は、なんて言おうどう言ったらいいんだろう、と困ったけど、困ってばかりいても事は何にも進まず時間だけが過ぎどんどん言いにくくなる。ので、事務的にダイヤルする。出たとこ勝負だ。
皆、絶句。
とりあえず通夜とかないんで、都合のいい時に来てください来てくれますか? できれば出棺の時も、とお願いする。
直接伝えなければならない人がいたので、18:30過ぎに家を出る。
電話では話せたけど、自分の感情を出さずに直接この事実を伝えられることができるのだろうか、とかなり不安になりつつ、20:30過ぎに到着。
話しながら、何度かこみ上げるものがあり言葉を詰まらせるが、何とか取り乱さずに全てを報告。
それだけで済ませるつもりだったのだが、どうしても拝顔したい、と言われ快諾。
家に帰ってきたのは、21:00過ぎ。
3/29、10:00過ぎ、故人と再会。
移動中の車内でふとあることを思いつきつつ、家に上がると、窓が開け放たれ、寒々しい。
なんで? と聞くと、今朝方から死臭が出始め、換気しているんだ、という。そりゃそうだ。もう生きてないんだから、体の内部は腐り始めるだろう。
朝早くに葬儀屋さんが来て新しいドライアイスに替えてくれたらしい。
それとは別に、お香も焚いてある。
そうか、仏式じゃないから、お線香焚かないんだ…。
お昼前、泣き崩れてた人とがんばってた人と三人で、とりあえず3/31の出棺まではがんばってスムーズに事を進めましょう、という話になった時に、
とうとうがんばってた人が泣き崩れてた人にブチ切れた。
人の死は、
本当に大きなものをもたらす。大きな変化をももたらす。
「あなたいくつになったの? 35歳? 35歳にもなって情けない!! 私が35歳の時には誰も味方はいなかった、子供二人抱えて、親にも見離され、あなたのように感情を曝け出すことなんて甘いことはできなかった!」
思えばこの言葉が泣き崩れてた人を復活させた。ちなみに一番辛いのはがんばってた人、ブチ切れた人。
それはさておき、臭いが気になりそれじゃ故人も(死んでなお辛い思いをさせるのは)かわいそうだということで、皆で相談し、納棺を一日早めてもらうことにする。
聞くと、棺の中に入れれば、ドライアイスもよく利くという。
今のように布団に寝かせた状態で室内にいて、遺体にドライアイスを抱かせている状態は、いわば、冷蔵庫を開けっ放しにしてるのと同じだという。
確かに。
身内はいいけどそれ以外の人には、この臭いはイヤだよなぁ、ということで、納棺3/30、13:00に変更。
ここで、車中で思いついたことをがんばってた人に話し、生前故人はワインが好きだったので、是非開けてあげたいけどいいかな、と許可を取ると、
じゃあお酒もだね、と言う。
聞けば死の二日前も小さなグラスでワインを一杯呑んだらしく、そうか若い頃は毎晩一升空けてたんだよな、と思い、ワインとお酒を用意。
ワイングラス二つと、お猪口一つ。
二つのワイングラスにワインを注ぎ、乾杯、飲み干す。
ちきしょー、生前呑もうと言われていたのに約束守れなかった、とここで初めて後悔。
13:30頃、昨日電話した親族3人、来訪。
故人と初めて対面する人と同席したくなくて、お茶とか前もって頼んでおいたお寿司とかを準備しつつ、室内を出たり入ったり。
思い出話に花が咲き、18:00頃、ようやく一段楽。
その後、故人の親しい人に電話連絡。
諸々の対応を決めて、新たにもう一本ワインを開栓、乾杯してから、21:00過ぎ退宅。
3/30、10:30頃、三度故人と再会。
まずは新たにワインを一本開栓、乾杯。
すると、泣き崩れてた人の旦那さんが到着してた。海外に、しかも日本への直行便がないところに住んでいるため、最速で来ても、この時間。
旦那さんはユダヤ人でユダヤ教なので、遺体の顔は見れないらしい。というのは聞いていた。
だから、自分なりの別れをすればいいよね、と話していたしそうも言ったんだけど、それでも見ます、という。
12:30頃に、昨日どうしても直接伝えなければいけなかった人たちが来宅。
泣き崩れる。
ありがたい、と思う。ぜひ一緒に納棺してください、と頼む。
13:00頃納棺。
まずは遺体を乗せた布団を、棺が入るように隅にずらし、そのあと棺を室内に入れ、先に敷いたシーツごと遺体を持ち上げ棺に入れる。
重い。
今まで布団に寝てたからか、棺に入れると、妙に窮屈そうに感じる。
納棺に備えて棺の中に入れてあげるものを選ばなきゃね、と用意してたものを取り出すと、葬儀屋さんが、金属性のめがねとかラジオなどはダメなんです…と申し訳なさそうに言う。
要するに、燃やす時に、燃えきらないで化学変化を起こす可能性があって危険だから、らしい。
止む無く、故人が愛用してためがね・ラジオ・補聴器は入れるのを断念。
革ジャンや原稿用紙、手紙、名詞、新聞、帽子、ベスト、など、愛用品を入れる。
棺の蓋は開け閉め自由なので、また何か新たに入れたいものがありましたらいつでも入れてあげてください、と言われ、そうなんだよかったよかった、と一旦蓋を閉める。
臭いがなくなる。
棺に入ってから、また新たに死がリアルになった。
本来なら、このまますぐ出棺だ。
しかしそれではあまりにも時間がなさ過ぎる、非情すぎる、よかったね今日に前倒ししてもらって、これでまたゆっくりお別れできるね、と、結果論とはいえ納棺を早めたことがさらに気持ちを落ち着かせた。
この日は五人で食事。
家にいるものを少し昼寝させて、その後、泣き崩れた人と少し話をし、また別でがんばってる人と少し話をして、結局20:00過ぎにもう一本ワインをあけて乾杯し、その後退宅。
帰りの電車の中、爆睡。
帰宅途中、泣き崩れてた人から携帯に電話が入り、そういえば自宅の留守電に入ってた? 入ってたなら、逝った正確な時間判らないかな? と言われる。
そうかなるほど! とあらためて自宅の留守電を再生すると、ものすごい声が入ってる。
ものすごい言葉が残ってる。
二言三言しか叫んでないのに想いが押し寄せて胸を締め付ける。
こんな時に出れなかったとは、こんな時にすぐに行けなかったとは。
どんな想いで朝まで過ごしたのか、それを思うととてつもない後悔が込み上げてきた。
3/31、出棺の日、9:30頃故人と再会。
早速ワインを一本あけて、乾杯。今日は出棺。
ここまで、比較的時間があったおかげで、みんな落ち着いているし、大きな動揺もない。出棺に、気持ちを向けることができている。
ワインを開けて、グラスを傾けて、棺に収まっている故人の顔を見て、
初めて意味もなく泣けてきた。なんだか腹立たしかった。
泣かせんじゃねーよ的な。
11:00頃、着付けの人が来て、泣き崩れてた人に、喪服を着付ける。
密葬にしてるはずなのに、電報や香典が届き、その対応をしていると、もう12:00。
急いで、そして今回初めて喪服に着替える。
本当は故人の喪服を借りるはずだったのだが、恐ろしいことに、ズボンのホックが止まらない、太った!?
…考えてもみれば、この四日間、喰ってしかいない。しかも結構な量を。
あぁなんてこった落ち着いたら絞らなきゃ、と、泣く泣く自分の喪服を着て、ベストだけ借りることにする。
12:30、親族到着。最後の別れ。
13:00頃、葬儀屋さんが花を持ってきて、また祭壇に飾ってあった花を切り取り、皆で棺の中に収める。中に、桜の枝花を買ってきてくれた人がいて、みんなで、よかったね、と泣きながら遺体に添える。
最後にもう一本開けようか、ビンやグラスは入れられないから、と新しいワインを持ってくると、葬儀屋さんが、よほどお好きだったんですね、と、紙コップにサランラップをして輪ゴムで止めれば零れないから棺に入れてもいいですよ、と言ってくれる。さらに脱脂綿にワインを湿らせ、皆で唇を濡らしてあげる。その数、六種類。四日で六本開けたのか…
13:30、出棺。男手四人で何とか霊柩車に乗せ、
13:45、出発。
14:30、火葬場に到着。
名残も何もなく坦々と進むその事務的流れに、遺族の怒り不満が爆発。
知らなかったんだけど、いわゆる、火葬場で焼き場に入れて、火を点ける作業をするのは喪主らしい。
しかしここのスタッフが、あっさりスイッチをいれ、いつ発火したのかすら判らない。
その上、ご焼香を、という。
無宗教でやっていたのに、今更焼香はないだろう、しかも遺族の感情を鑑みないあまりにも非道な所業。
ちゃんと説明できる責任者を呼べ、と大騒ぎ。
そりゃそうだ。
火葬場のスタッフにしては幾つもあるうちの一つかもしれないが、遺族にとっては、本当に最初で最後で、しかも決してめでたいことではない。
むしろ、
故人の人生や人格が一気に心を占めているど真ん中。
そこに表れた責任者、少しは判っているのか、こちら側の怒りや悲しみを察し、細かく説明してくれお互いが納得の上、これからは自分が最後まで担当させていただきます、と、とりあえずは事なきを得る。??
15:35、焼かれてしまった故人の骨が姿を見せる。
頭蓋骨はもちろん、上半身から下半身に至るまで、まるで標本のように、全て、形を崩さずに残っている。
得も言えない感情が込み上がる。
死が、恐ろしいほどに現実的に無理矢理に突き付けられ、生前の姿と、骨になってしまった姿とが、勝手に心の中でシンクロし、直視せざるを得ない。
そう、直視できないのではく、見ずにはいられないのだ。
全員一旦外に出てから、いよいよ、収骨。
骨壷を前に、集められた骨を入れていく。
普通、箸で一つの骨を二人で挟んで骨壷に収めるが、それは、故人が三途の川を渡る時に上手くいきますようにという想いをこめての「橋渡し」という意味がある。
しかし仏式ではない。
やり方は自由、とりあえずまだ熱いので箸で骨を拾い骨壷に収めながら、冷めてきたら、手で直接すくいあげて収めていく。
細かい骨が、というより、砕けて細粒になった骨が掌にくっつき、叶うならばそのまま自分の掌の皮膚の中に浸透してはくれまいかと、何度も手を擦りつける。
それにしてもその量、そして骨密度たるや! 本当に86歳か?
下半身だけで骨壷は一杯になってしまったので、例の責任者の人が説明をしつつ、骨壷に収められた骨を崩しながらスペースを作り、その上に上半身の骨を収め、最後に喉仏・頭蓋骨を納める。
その場にいた全員で骨壷の蓋を閉め、終了。
骨壷を収めた箱をしっかりと抱き、タクシーに乗り込んで、精進落としの会場へと移動。
渋滞、満開の桜。
これが現実だ。
会場へ着くと、スタッフが待ちわびていたようで、すぐに丁寧に案内される。
密葬ゆえ、参列者は極めて少ない。
陰膳も据え、今日一日を労い故人を偲び感謝を施し、やがて散々とする。
再び遺骨を抱えタクシーに乗り込み帰宅。
故人の希望で流していたCDの音楽が虚しく出迎えてくれる。
24時間4日間、常に流れていた。
故人が寝ていた部屋には、もうベッドもなければ布団もない、故人もいない。あるのは、遺影と遺骨だけ。ただそれだけ。
遺骨と遺影を床の間に置き、簡単に後片付けをし、整理整頓し、あそうだワインワインと遺影の前のグラスにワインを注ぎあらためて乾杯し、今後の事務的な打合せをする日取りをとりあえず決めて、邸を後にする。
22:00過ぎ、帰宅。
力が入らない。
もう、故人と再会することもない。
ビールとワインを呑みながら故人の話に花が咲き、涙が零れ、笑いがおこり、悔いが残り、それでも明日また日は昇る。
全てが終わった。
そして、また新しい道が始まる。
家で逝き、家から出、無宗教のため、初七日とか四十九日とか一周忌とか、なんにもない。何にも囚われない。囚われる必要もない。
残るのは故人を想う心のみ。
それが全て。
さらば、父よ。
去ってしまったことよりも、もうこの世にいないことよりも、もう二度と会えないことよりも、骨になってしまったことの方がショックだ。
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